ヲカシック・レコード

われら今、真にこれ声聞なり。佛道の声をもって一切をして聞かしむべし。(妙法蓮華経 信解品第四)

宗祖大聖人御書『新池御書(2/4)』(弘安三年二月 御寿五十九歳)

(底本:『平成新編・日蓮大聖人御書』(大日蓮出版) p.1457)

ああ、過ぎにし方の程なきを以て知んぬ、我等が命・今いくほどもなき事を。春の朝(あした)に花をながめしとき、ともな(伴)ひ遊びし人は、花とともに無常の嵐に散りはてて、名のみ残りてその人はなし。花は散りぬといへども、またこん春も発(ひら)くべし。されども消えにし人はまたいかならん世にか来たるべき。

 

秋の暮れに月を詠(なが)めしとき、戯(たはむ)れむつび(睦び)し人も、月とともに有為の雲に入りて後、面影ばかり身にそひて物いふことなし。月は西山に入るといへどもまたこん秋も詠(なが)むべし。されどもかく(隠)れし人は今いづくにか住みぬらん、おぼつかなし。

 

無常の虎のなく音(こへ)は耳に近づくといへども聞いて驚くことなし。屠所(としょ)の羊は今幾日か無常の道を歩みなん。雪山の寒苦鳥は寒苦にせ(責)められて、“夜明けなば栖(す)つくらん”と鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて、また栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをう(得)。

 

一切衆生もまたまたかくのごとし。地獄に堕ちて炎にむせぶときは、“願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世の菩提をたす(助)からん”と願へども、たまたま人間に来たるときは、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。

 

無益の事には財宝をつ(尽)くすにお(惜)しからず。仏・法・にすこしの供養をなすには是を物憂く思ふこと、これただごとにあらず、地獄の使ひのきを(競)うものなり。寸善尺魔と申すは是なり。

 

その上、この国は謗法の土なれば、守護の善神・法味にう(飢)へて社(やしろ)をす(捨)て天に上りたまへば、悪鬼入りか(替)はりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰りたまへば、堂塔寺社はいたずらに魔縁の栖(すみか)となりぬ。

 

国の費(つひ)え民の歎きにて、いらか(甍)を並べたるばかりなり。これ私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取りたまはず、いはんや人間としてこれをう(受)くべきや。

 

春日大明神の御託宣にいはく
「飯に銅の炎をば食すとも心穢れたる人の物をう(受)けじ。座に銅の焔(ほのを)には坐すとも、心汚れたる人の家にはいたらじ。草の厩(ほそどの)、萱(カヤ)の軒(のき)にはいたるべし」といへり。「たとひ、千日のしめを引くとも不信のところには至らじ。重服深厚の家なりとも有信のところには至るべし」云云。

 

かくのごとく、善神はこの謗法の国をばなげ(歎)きて天に上(のぼ)らせたまひて候。心けがれたると申すは法華経を持たざる人のことなり。この経の五の巻に見えたり。謗法の供養をば銅の焔(ほのを)とこそおほせられたれ。

 

神だにもかくのごとし、いはんや我等凡夫としてほむら(焔)をば食すべしや。人の子として我が親を殺したらんものの、我に物を得させんに是を取るべきや。いかなる智者・聖人も無間地獄を遁(のが)るべからず。またそれにも近づくべからず。与同罪恐るべし恐るべし。