ヲカシック・レコード

われら今、真にこれ声聞なり。佛道の声をもって一切をして聞かしむべし。(妙法蓮華経 信解品第四)

ブログの再開にあたって

「法華経の語り部」こと可咲(かえ;ペンネーム)です。「語り部」を名乗るくらいですから、法華経を現代語訳してYouTubeで語っていきたい!くらいの欲求はあるのですが、服用している薬の副作用のためか発声障害があり、あきらめています。そのため、インターネット空間ではなく、リアルでの布教で「語り部」として活動しています。

 

それでも、インターネット空間で「ものがたり」と言えるものを読み聞かせしたいと思い、このブログを再開しました。

 

さて、私が顕正会を脱会して日蓮正宗の勧誡を受けてから、今年で10年になります。その間、いろいろなことがあったのですが、いちばん大きな方針転換は、インターネット空間で折伏をしなくなったことです。

 

理由は、宗教の本質は所属する神話の受容にあり、共通の神話を受容できない人間同士での議論は不毛で非生産的だと気づいたから、です。

 

宗教というのは、宗教者(聖・俗)が神話を受容することによって成立します。神話というのは、キリスト教では「キリストの復活」にまつわる「伝承」であり、日蓮正宗ではいわゆる「本門戒壇の大御本尊」と「法主」にまつわる「伝承」です。

 

言うなれば

「どの神話をどのように受容するかによって、どの神話にどのように所属するかによって、人生の超自然的な部分は大きく変わってくる」

ということに気がついたのです。

 

もちろん、顕正会の会長である浅井昭衛さんが老衰にかかわらず、会のトップに君臨し続けているのは「神話の継承」がうまくいっていないせいなのかも知れませんが、対峙している創価学会や日蓮正宗という組織で「神話の継承」がホントにうまくいっているのかは、あと二・三世代くらい後の時代にならないと分からないと思います。

 

日蓮正宗内部でも、神話を共感的・共時的に受容できる人間関係の構築は、立ち遅れています。創価学会員への布教は進んでいるようですが、それ以外の宗教者への布教はうまくいっているとは言えないのではないでしょうか。

 

このような状況で、インターネット空間での議論に明け暮れていても、布教は進まない。時間の無駄です。

 

今、「法華経の語り部」としてできることは、あの宮沢賢治がやろうとしたように、「説話」や「経典」を、「小説」や「童話」、あるいは「ライトノベル」という、時代に受け入れやすい形にして広めていくことではないかと思っています。