ヲカシック・レコード

われら今、真にこれ声聞なり。佛道の声をもって一切をして聞かしむべし。(妙法蓮華経 信解品第四)

『寿量品談義』:三疑三信の事(日寛上人ご指南)

(底本:山喜房仏書林版『富士宗学要集』第十巻)

三疑・三信の事

 

『弘』4-末-51にいはく
「覆器とは信なきゆへに器の覆るがごとし。大論にいはく『羅いはく、自ら小にして多く妄語を喜ぶ。妄語をもってのゆへに無量の人をして仏を見ること得ざらしむ、仏これを調せんと欲し、遠行して還り水を汲(く)ましむ。仏・脚生(うま)るるに澡盤(そうばん=注記:「洗いおけ」のこと)覆へる、それをして水を注がしむ。答へていはく、器覆って水入らず、仏・のたまわく汝・覆器のごとし、法水入らず種々呵責したまふ』と。今、譬疑を借る」已上。

 

文意にいはく、この中に、「仏、羅にのたまふに妄語を誡めたまふ」は誡門なり。「自ら重ねて、実語をもってせよ」とあるは勧門なり。今、またかくのごとし。

 

今、久遠実成・真実己証の法門を説くほどに「少しも疑ひなく信じたてまつれ、もし少しも疑はば、かの器の覆へりたるに水の入らざるごとく、本地難思の境智の妙法の法水は汝らが己心の中には入らざるほどに、少しも疑ひなく信じたてまつれ」と誡・勧したまふぞといふ分科の意(い)なり。

  

しかれば在世・滅後、時は異なれども、いつにても信心なき者は覆器のごとし。よって妙楽大師は「覆器とは信無きゆへに器の覆へるがごとし」と釈したまひて、もっとも信心を肝要とするなり。

 

問ふ、吾等は如何様(いかよう)に疑ひなく如何様に信じ候べきや。
答ふ、信とは疑ひ無きを「信」といふ。

 

これについて『止』4-56にいはく
「疑に三種あり、一には自らを疑ひ二には師を疑ひ、三には法を疑ふ」已上。

 

『弘』4-末-44にいはく
「疑ひに過ちありといへども、しかもすべからく思択するべし、自身におひては決して疑ふべからず。師・法への二疑すべからく暁(あき)らむべし。もし疑はざれば、あるひはまさにまた邪師・邪法に雑はるべし。ゆへにまさに熱く疑ふべし、善く思ひこれを択べ、『疑を解の津となせ』とはこのいわれなり。師・法、すでに正ならば法に依って修行せよ、そのときに三疑は永くすべからく棄つべし」已上。

 

「自身においては決して疑ふべからず」とは、
《不変真如の眼の前には十界ことごとく法性、妙法蓮華経の当体の水なり。しかるに我らは寒気して悪縁に値ひ、九界の衆生の氷となる。しかりといへども、これまた如日天子たる本門寿量品の肝心、妙法蓮華経の浄縁の光に値ひたてまつれば、そのまま我らが悪業煩悩の氷の解け、根本の妙法蓮華経の水となり即身成仏すること、決定として疑ひ無き義なれば、少しも疑ふべからず》といふことを「自身においては決して疑ふべからず」と釈せり。

(投稿者注記:「不変真如の眼の前には」とは「御本尊の仏眼・法眼の御前には」の意味なるか)

 

なおまた現証をうかがふに、今日の教主釈尊は直ちに凡身より仏果を感じたまへり。南岳・天台は六根五品の位に叶ひ、和国の性空上人は法ケ読誦の功力によって現身に六根清浄を得たまへり。なんぞ我ら底下の凡夫にして道の器にあらずと疑ふべしや。

 

しかれば正法・正師によって修行せば即身成仏せんこと、掌中の視菓のごとし、云云。

 

「師・法の二疑はすべからく暁らむべし」等とは、もし大途を取ってこれを言はば、釈尊五十年の説法を尋ねるに、無量無辺なりといへども、権・実・迹・本を出でざるなり。

 

『文』9-56にいはく
「諸仏五濁に出づる、必ず前三後一、先近後遠なり」已上。

 

まず、権実とは約教・約部の判あり。

約教の時は爾前の蔵・通・別の三教は権教の廉法なり。円は妙なり・実なりと明かすなり。重々の義ありといへどもしばらくこれを略す。

 

約部の時には、華厳・阿含・方等・般若の前四時を以て権教廉法と定め、第五時の法華を以て実教・妙法と定むるなり。これ天台一家の大判なり。

 

『竹』一-本-51、「まづ四教に約して以て廉・妙を判ずるときは、前三を廉となし、後一を妙となす。次に五味のために以て廉・妙を判ずるときは前四時を廉
となし、醍醐を妙となす」已上。

 

『竹』3-16にいはく
「先に四教に約して判じ、次に五味に約して判ず、若し教を明かさざるときは教妙を知らず。若し味に約さざるときは部妙を知らず。『下』にいはく『一切の判、廉・妙の文ことごとく皆なこれに例せよ」已上。

 

『無量義経』の「四十余年未顕真実」とはこれなり。また約教・約部の中には約部こそ正意なり。しかれば権実相対の時、爾前は権法・廉法なりといふ事、分明なり。

 

次に本迹相対の時、爾前迹門十四品を総じて廉法・権法と定め、本門を以て妙法・実教と定むるなり。

 

問ふ、その証文いかん。
答ふ、『玄』第七に本門の十妙を釈す。
十妙の一、云云。一に近きのゆへ。二に浅深不同のゆへ。三に払はるるゆへ。三義を以て爾前迹門の迹因迹果となす。

 

迹因とは迹の感応、迹の神通、迹の説法等を皆なことごとく「方便なり」と打ち破って、本因・本果・本国土の本の説法、これを真実と定め畢(おは)って次下にいたりてさらに判廉妙、判権実の二科を立てて、丁寧に迹門は廉法・権法、本門は妙法・実教ぞと釈したまへり。

 

『玄』7-37にいはく
「始得を廉となし、先得を妙となす」已上・取意。

 

「始成正覚」と説くは「但為方便教化衆生」のゆへに廉なり、「先得為妙」とは「我実成仏」のゆへに直の実・妙なり。

 

『玄』7-38にいはく
「若しは権、若しは実、ことごとくこれ迹、迹のゆへに権と称す」已上。

 

また、同30-6にいはく
「通じて本迹を論ずるにただこれ権と実となり」と云云。

 

これ迹門を以て権と名づけ、本門を実とするなり。しかれば迹門は廉法・権教、本門は実教・妙法なること必然なり。

 

問ふ、もししからば爾前は定めて廉法なり・権法なり、能弘の師・また権師なり。迹門はあるひは実といひ、権といふ。あるひは妙といひ、廉といふ。ゆへにその能弘の師、またあるひは権師・あるひは正師なるべし。本門には一向、正法・正師と見へたり、いずれを信ずべきや。

 

答へていはく、なんじが疑は、妙楽大師の「二疑、すべからく暁らむべし」の義に当れり。今、暁(さと)していはく、先の爾前・四十余年は権教・廉法にしてその師は権師なり。あまつさへ権教を以て実教を打つゆへに邪法・邪師となるなり。

 

もし迹門を以て面(おもて)として弘通したまふは、天台・伝教のごとく正法なり正師なり。これすなはち像法の弘通にして、今・末法に入れば去年の暦のごとし。

 

末法の今時は爾前の邪法・邪師を打ち捨て、迹門の師・法の二つをも打ち除き、ただ本門寿量品の妙法、ならびに本門寿量の妙法を弘通する師を信ずべきなり

 

問ふ、その証いかん。
答へていはく
一に能弘の師の本地を論ずるにすでに本化の菩薩なり所属の法体を論ずるに本門寿量の妙法なり所被の機を論ずるに本門の直機なり

 

また、今の時は寿量品の肝要・妙法蓮華経の流布すべき時なり。

『観心本尊抄』21にいはく
「しょせん、迹化・他方の大菩薩等に、我が内証の寿量品を以て授与すべからず、末法の始めは謗法の国にして悪機なるがゆへにこれを止めて地涌千界の大菩薩を召し、寿量品の肝心・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提の衆生に授与せしむるなり」と。

 

この文の中に、師・法・機・時あり、見るべし。なかんずく、能弘の師と所属の法と分明なり。

 

御書38-6『立正観抄』にいはく「本化弘通の所化の機は本門の直機なり」已上。

 

『撰時抄』5-23に「寿量品の肝要・南無妙法蓮華経、末法に流布すべきなり」已上。

 

権教権門の族(やから)はしばらくこれを置く、大聖人の流れといふ学者、これらの文を看(み)て、末法今時に本門寿量の妙法を信ずべしといふこと、分明なるにあらずや。

 

録外15-30『三大秘法抄』にいはく
「末法の初めの五百年は法華経の本門前後十三品を閣いて、ただ寿量の一品を弘通すべき時なり」已上。

 

もししからば、権教等の邪法・邪師の邪義を打ち捨て、本門寿量の妙法並びにこの法門を弘むる師を信ずべしといふこと分明なり。

 

かくのごとく聴聞する上において、師をも法をも少しも疑はず信じたてまつれといふことを「師・法すでに正しければ法に依って修行せよ、その時、三疑・永くすべからく棄つべし」となり・已上。

 

しかれば面々も釈尊・天台・妙楽、祖師大聖人の本懐に相ひ叶ひ本門寿量の妙法を信じたてまつるゆへに、必ず即身成仏せり。

 

御書23-24にいはく
「しかるに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師を捨てて、正直に正法・正師の正義を信ずるゆへに、当体蓮華を証得し、常寂光の当体の妙理を顕すことは本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるゆへなり」已上。