信仰ってつまるところ、その正体は何なんだ、という哲学的な「問い」は、私には昔からあった。いつかと言うと、小学生の頃、『戸田城聖全集』の「質問会」編を読んでから。中学生の頃には日蓮正宗第26世日寛上人の『六巻抄』の創価学会版の講義録に手を出した。しかし、「答え」は得られない。苦しんだ。
高校生の頃、顕正会に移っても、「問い」は解けなかった。当時は白黒ハッキリさせたい気性だったので、苦しんだ。
ようやく、二十代後半に、顕正会の『六巻抄』講義録が入手できるようになり、期待して視聴したが、通りいっぺんの説明しかなく、哲学的な深みは感じられなかった。失望した。
その頃、低血圧と低血糖で器質性の病いを患った。顕正会を離れ、日蓮正宗の寺院に所属を移した。天台大師の『摩訶止観』を一通り読んで、答えを出すことにした。
まだ、問いの決着はついていない。時間的にも、肉体的にも、弱さが感じられるようになって、『摩訶止観』は一回、通読してあきらめてしまった。
今はまだ『摩訶止観』ではなく『法華経』を読みたい。『摩訶止観』はまだ早い、と思っている。